人間は言葉の動物
では、このように人間にとって重要な意味を持つ「言葉」とはいったい何なのでしょうか?すこし掘り下げて考えてみましょう。
新約聖書のヨハネ福音書第一章に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(新共同訳)と書かれています。
また、ギリシャの哲学者・アリストテレスは「人は言葉の動物である」と喝破しています。
多くの人々が知るこの二つの文章は、人間にとって言葉が決定的に重要なものであることを語っています。すでに遠くローマ時代やギリシャの都市国家時代に「コトバが神である・・・」「人間の人間たる所以はコトバにある・・・」と説かれていたのです。
ところが現代人の多くはこの言葉の本質に気付かずにいます。情けないことに言葉を道具の一つのように錯覚し嘘や偽り誇張した言葉、さらに破壊的で暴力的な言葉を乱発しています。当然のこととして言葉とは何か?について殆ど考えようともしていません。
言葉がなければ「想うこと」も出来ません
近代哲学の世界でもコトバについて殆ど触れられずにきているようです。デカルトは「我想う故に我あり」と有名な言葉を残していますが、では、何故に「想う」ことができるのでしょうか?もし、言葉がなければ「想うこと」も出来ないはずです。
認識するすべての事象には名がついています。小は原子・素粒子の世界から大は宇宙・銀河系の星々に至るまで、人間が認知しているもので名が付いていないものは何一つありません。名=言葉であり、その名の組み合わせによって、人は物事を識別し認識し思考し、欲望を膨らませ、想像し、意識し、そして人類の全ての文明文化を創造し生み出しているのです。
もし、言葉が無ければ人は犬や猫や同様に何一つ創造することが出来ない、ただの動物に過ぎない存在に陥ってしまうのです。
もし言葉が無ければデカルトのように「我想う」ことも出来ず。アリストテレスの指摘するように「人間は人間たる根拠を失う」ことになってしまうのです。
したがって言葉が無ければ、この地上の一切の人工物もなく、人類の文化文明も存在せず、同時に人間は人間たる意識も持てず、天地宇宙、森羅万象、神の存在すら認識することも不可能になってしまう筈です。 (つづく)