光透波理論の祖・小田野早秧先生
光透波の名称と天鏡図が生み出された経緯
昭和24年(1949)1月14日に黄金の光(絶対光)の霧に包まれるという不思議な体験をされたのでした。
さらに昭和28年(1953)に「光・透・波」の光の文字が天井の隅の壁から小田野女史の顔に飛び込んでくるという霊的な体験をされ、その瞬間に「透」の字を「秀」と「走」に分解して、秀でた走り=トップスピード・・・。絶対性の謎が「光透波=ことは」であることを悟ったのでした。
同年6月22日、午前9時ごろ、胸の上部に「白い人差し指」で「天鏡」と刻印される霊現象を体験されたとのことです。
同年6月25日、霊夢で「アイウエオカキクケコサ」の文字を見せられ、「サ」の次の「シ」音の表意文字が300以上ある凄さに気付き、仰天されたとのことです。
それ以来4年4か月にわたり寝食を惜しんで断食スレスレの生活を東京の田園調布の自宅で送りながら、アイウエオ50音字の一音一音の奥に潜む神意なる文字を探求し続けたのでした。その過程で真意に沿わない文字を選択すると、自身の体調が崩れるというような不思議な導きを数々受けながら、纏め作業は進んでいったとのことです。
昭和32年(1957)10月31日に一二三文字の「天鏡図」=「文字の紐解図」=「命波音76音表」は完成しました。その「天鏡図」によって小田野先生は文字の奥に秘められた真理=神意の解明を続け、神の存在証明は文字によってできることを確信して「コトハ(光透波)理論」を確立されたのでした。
以来、平成13年(2001)、天寿を全うさるまでの40年ほどの間、名古屋や東京等でセミナーを開催し続けたりして、コトハの普及に一途に尽力されたのです。がコトハの真価を理解出来る人は少なかったようです。あまりにも時代を先取りした卓越した理論であったがために、なかなか世には受け入れられなかったのです。
画期的で斬新かつ深遠な「光透波理論」は、言語学会や言語研究家達の物差しでは到底測り知ることができず、脚光を浴びることがなかったのです。小田野先生に師事されることはの研究者や信奉者によって引き継がれ、未だに世に出ず今日に至っていると言えるようです。
つづく
ホームページ https://kotohawanokai.club
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